はじめに
この記事では、学歴や偏差値をめぐる議論を扱います。
現在、YouTubeチャンネル「wakatte.TV」が福島大学を取り上げた動画をめぐり、大きな批判を受けています。学生・教職員・研究者の尊厳を傷つける言動があったとして、福島大学学長による抗議声明が公表され、文部科学大臣も記者会見で言及する事態に発展しました。
私自身、この騒動を題材に記事を書く以上、話題性を借りる面があることは否定しません。とはいえ、誰かを笑いものにしたいわけでも、学歴や偏差値そのものを否定したいわけでもありません。考えたいのは、「私たちがそれらをどう捉え、どう使いこなせばよいのか」ということです。
先に結論――この記事で伝えたい5つのこと
- 学歴の序列は、物差しを変えれば入れ替わります。 国内の序列と世界基準では見え方が異なり、絶対的な序列は存在しません。
- 偏差値は、一つの絶対的な数字ではありません。 模試の母集団や算出方法によって異なる、局所的な統計指標に過ぎません。
- 大学名だけで、学べる内容や研究の質は決まりません。 偏差値の数値と、そこにいる教員が持つ専門性や熱量は直結しません。
- それでも、偏差値と学歴は道具として役に立ちます。 志望校までの現在地を測るナビゲーションであり、共通言語としての役割を持ちます。
- 問題は、道具そのものではなく「使い方」です。 進路を切り拓くために使うのか、他人を見下すために使うのか。両者は根本的に異なります。
この記事で考えたいこと
今回の騒動を入口に、私たちが普段何気なく使っている「学歴」や「偏差値」という物差しについて、順を追って考えてみたいと思います。
「学歴こそすべて」「偏差値が高い人ほど優れている」という考え方に対し、単なる道徳論やお気持ち表明で反論するつもりはありません。まずは、あえてその物差しを論理の極限まで押し進めたときに、どのような矛盾が露呈するのかを検証します。そのうえで、学歴や偏差値の本来あるべき使い方を整理していきます。
1. 国内の序列を世界に広げると、何が起こるか
まず、「偏差値の低い人には重要な仕事を任せたくない」という考え方を、論理的に先まで延ばしてみましょう。
たとえば、偏差値ゼロの架空の大学「私立カワシマインスティテュートオブ白河大学」があり、その医学部を卒業した医師に診てもらう場面を想像してください。心理的な不安を覚える人がいることは、感情として理解できます。そこから「偏差値ゼロの大学より東京大学、東京大学よりハーバード大学の医学部出身者のほうが安心できる」と展開するなら、学歴重視の論理として一定の筋は通っています。
では、同じ理屈を塾・予備校業界に当てはめるとどうなるでしょうか。
この論理に従えば、「東京大学出身の講師より、世界ランキング上位校(ハーバードやオックスフォードなど)出身の講師のほうが常に指導者として優れている」と主張しなければならなくなります。
実際、世界大学ランキングにおいて、日本の最高峰である東京大学もおおむね20〜30位前後に位置しています。世界基準の物差しを持ち出した途端、「トップ100に数校しか入らない日本の大学は、東大・京大も含めて大半が世界的には低評価である」という極端な結論に至ってしまいます。
けれども、日本の大学入試を教えるのであれば、日本の教育制度や入試問題の構造に精通した講師こそが適任です。世界ランキングの順位だけを根拠に現場の指導力を否定するのは、明らかにピントがずれた議論です。
ここに、学歴や偏差値を使ったマウントの決定的な弱点があります。「どの物差しを選ぶか」によって順位はいとも簡単に入れ替わり、特定の狭い物差しを絶対視しなければ序列そのものが維持できないのです。
私自身も、米国の高等教育機関(カレッジ)で学び、国内外の大学・大学院で研究指導を受けるなかで、異なる評価軸を数多く経験してきました。ある特定の指標や組織内で優秀な成績や表彰を収めたとしても、別の基準に立てばまったく違う評価になります。一つの物差しで得た数字を根拠に「自分は他者より人間として上だ」と誇ることに、学問的・本質的な価値はありません。基準を増やせば増やすほど、あらゆる序列が「状況依存の仮初めのもの」であることが明らかになるだけです。
2. 偏差値は、誰が測るかで変わる
序列の相対性に続き、今度は「偏差値」という数字そのものの性質を考えます。
そもそも、偏差値という尺度そのものに善悪はありません。センチメートルとインチのどちらが道徳的に正しいかを論じても意味がないのと同じです。
私にとって偏差値は、小学校の算数で習う「デシリットル」に似ています。液体の体積を測る特定の場面では重宝しますが、あらゆる日常の判断に持ち出す単位ではありません。偏差値も同様で、「日本のペーパーテスト市場という極めて限られた母集団の中での相対位置」を示す計測基準に過ぎません。
ところが、偏差値を絶対視する人ほど、都合のよいデータだけを恣意的に信じる矛盾に陥りがちです。
たとえば、「進研模試は数値が高く出るから信用しないが、河合塾や駿台の偏差値は本物だ」といった言説です。しかし、統計指標として客観性を論じるならば、全国数十万人規模の母集団を持つデータの価値を一方的に退けることはできません。
特定の模試だけを崇める人が信じているのは、純粋な統計指標としての偏差値ではなく、「その模試が提示する見慣れたブランド序列」に過ぎないのではないでしょうか。
大学名と「学びの質」の関係も同様です。いわゆる「Fランク」と呼ばれる大学であっても、旧帝国大学をはじめとする難関大学院で最先端の研究を修め、情熱を持って教育にあたっている研究者は数多く存在します。大学名のラベルだけで、そこで行われている教育や研究の深さを十把一絡げに断定することは不可能です。
3. 「大学が多すぎる」という議論に欠けている視点
ここまでの議論を発展させると、「偏差値の低い大学は税金の無駄だから削減・廃止すべきだ」という極論に行き着くことがあります。しかし、この言説には高等教育行政と社会構造に対する重大な見落としがあります。
第一に、「知の再生産と雇用のプラットフォーム」としての側面です。
難関大学や旧帝国大学の大学院が毎年輩出する優秀な博士人材や研究者は、どこで研究と教育を継続するのでしょうか。それらの受け皿を偏差値だけで一律に切り捨ててしまえば、日本のアカデミア全体の基盤が崩壊します。
第二に、「地域の知的生活と社会インフラの維持」という極めて実利的な役割です。
地方大学は、地域の教員養成、医療・福祉の人材供給、地元企業との共同研究など、首都圏の偏差値競争とは異なる次元で「地域社会の存続」を支えています。地方から大学が消えることは、その地域の知的なインフラと若年層の定着拠点が失われることを意味します。
さらに、大学の原点に立ち返れば、英語の「School」の語源は古代ギリシャ語で余暇や閑暇を意味する「Schole(スコレー)」にあります。
日々の生活のための労働から離れ、純粋な知的好奇心や教養を深める時間が、教育の根本にありました。
実学や就職実績を重視すること自体は否定しませんが、それのみを唯一の目的に据えてしまえば、大学は単なる「職業訓練施設」へと矮小化してしまいます。目先の利益や就職率に直結しなくとも、じっくりと本質的な問いを探究できる場を残すことは、社会全体の知的体力を維持するために欠かせない投資です。
4. それでも、学歴と偏差値は役に立つ
学歴や偏差値を絶対視する姿勢に問題があるからといって、「だから偏差値も学歴も完全に無意味だ」と短絡的な結論を出すべきではありません。
役割と限界を正確に理解して使いこなすならば、これらは非常に機能的な道具です。
仮に、国内のすべての模試が10年間停止した世界を想像してみてください。
受験生は自分の現在地も、目標とする大学の難易度も把握できないまま、手探りで試験に挑むことになります。学習計画の立案は困難を極め、混乱が生じるはずです。
やがて受験生の動向から「人気度」が可視化され、最終的には「合格可能性を客観的に測る仕組み」が再び求められます。結局のところ、誰かが偏差値と同様のシステムを再構築することになるでしょう。
つまり偏差値とは、「今の自分の実力から目標まで、あとどれだけの距離があるか」を把握するためのナビゲーション・ツール(現在地測定器)なのです。
同様に、学歴も社会生活において一定のスクリーニング機能や共通言語としての役割を果たしています。初対面でのバックグラウンドの共有や、膨大な採用業務における初期の目安として機能している現実は否定できません。過大評価も過小評価もせず、「そういう性質を持つ道具である」と客観的に認識することが重要です。
結び――物差しに支配されず、物差しを使いこなす
学歴も偏差値も、進路を選択し、社会の中で円滑にコミュニケーションを図るための「人間が作った便利な道具」に過ぎません。デシリットルという計量単位そのものに人格や善悪が存在しないのと同様に、道具そのものが人を尊くしたり、無価値にしたりすることはありません。
受験指導の現場において、偏差値は生徒の現状と目標を結ぶために不可欠な指標です。私自身、塾の代表として日々の進路指導でデータを徹底的に活用しています。だからこそ、教育に携わる者には、その数値が持つ有用性と、同時にそれが決して測ることのできない領域の広さを、誰よりも深く理解しておく責任があります。
大切なのは、物差しに自分や他人の人間的価値を決めさせることではありません。
「その物差しが何を測れて、何を測れないのか」を見極めたうえで、自分自身の望む未来を切り拓くために使い倒すことです。
偏差値に振り回される側から、自らの意志で道具を使いこなす側へ――。
それが、私たちが「探究スタジオ」の指導現場を通じて、生徒たちに伝えていきたい学びの姿勢です。
福島県白河市の学習塾「探究スタジオ」では、
偏差値という物差しを正しく使いこなし、
志望校合格と本質的な学びを目指す生徒を募集しています。
